LOGIN午前一時四十分を過ぎたころ、浴室の曇りガラスの向こうから、女の声がした。
「……まだですか」
新井健太は、洗面台の前で歯ブラシをくわえたまま動けなくなった。
築三十八年の二階建てアパートは、夜になるといろいろな音を立てる。上の階を誰かが歩けば天井がきしみ、強い風が吹けば古いサッシが小刻みに鳴った。水道管もお世辞にも静かとはいえず、隣人が風呂を使っているだけで壁の奥から低い唸りのような音が伝わってくる。
だから最初の数日は、何かの聞き間違いだと思っていた。
ところが、その声だけは違った。
人間の声だった。
若い女にも、中年の女にも聞こえる曖昧な声で、怒っているわけでも泣いているわけでもなく、ただ誰かの返事を待ちくたびれたように、
「まだですか」
と尋ねる。
健太はゆっくりと歯ブラシを口から抜いた。
「拓海」
小声で呼んだが、返事はない。
同居人の森川拓海は、六畳の洋室でイヤホンをつけたままオンラインゲームをしている。深夜になると声を潜める程度の常識はあるが、ゲームを始めると世界が滅びても気づかないような男だった。
浴室の扉は閉まっている。
さっきまで健太が使っていたので、床も壁も濡れていた。湯気で曇った樹脂製の扉には、人影らしいものは映っていない。
「誰かいるんですか」
言った瞬間、尋ねてから後悔した。
知らない女が浴室にいるのも嫌だが、誰もいないのに返事が来るほうがもっと嫌だった。
十秒ほど待ったが、何も聞こえない。
健太は息を吐き、洗面台へ向き直った。
その背後で、
「いつまで待てばいいんですか」
今度は、はっきり聞こえた。
健太は歯ブラシを洗面台へ落とし、そのまま廊下を走った。
「拓海! イヤホン外せ!」
「うわっ、何だよ! ノックしろよ!」
「また聞こえた!」
「何が?」
「風呂だよ。女の声!」
拓海はゲーム画面から顔を上げたものの、すぐには立とうとしなかった。二十一歳の健太とは大学の同級生で、半年前まで学生寮で暮らしていた。春から二人で部屋を借りようと言い出したのも拓海である。
「お前さ、最近その話ばっかりだぞ。俺は一回も聞いてないし、上か隣の声が配管通って響いてるだけじゃないの」
「だったら何で毎回『まだですか』なんだよ。隣の人、毎晩風呂場で誰か待ってんのか?」
「知らねえよ。遠距離恋愛でもしてるんじゃないか」
「配管越しに?」
「そこまで詰められると俺も困るけどさ」
拓海は面倒そうにイヤホンを机へ置いたが、健太の顔を見て表情を変えた。
「……本当に聞こえたのか?」
「だから言ってるだろ。今日で五回目だぞ」
「時間は?」
「一時四十分くらい」
「前もそのくらいだった?」
「だいたいな」
拓海はしばらく考えたあと、スマートフォンを手に取った。
「じゃあ録音してみよう。次に聞こえたら、俺も確認できる」
「次がある前提で言うなよ」
「引っ越すにしても証拠がいるだろ。管理会社に『幽霊がしゃべるので退去します』って言って、違約金なしになると思うか?」
腹が立つほど現実的な話だった。
二人は今年の春、この部屋へ入居した。
二部屋に台所、独立した浴室とトイレがあり、大学まで自転車で十五分。駅も徒歩圏内で、学生二人が暮らすには十分すぎる条件だった。
家賃は八万七千円。
二人で折半すれば四万三千五百円だったから、学生寮を出ると決めたときには安いと思っていた。
ところが入居して一か月ほど経ったころ、同じ大学の友人から言われた。
「そこ、高くない?」
調べてみると、近隣の同程度の物件は六万円台後半から七万円台前半だった。
古い建物なのに、ここだけ妙に高い。
しかも不動産情報サイトを遡って調べた拓海が、さらに嫌なことを見つけた。
この部屋だけ、入居者の回転が異常に速かった。
確認できる範囲でも、直近五年間で九人。
長くても三か月ほどで退去している。
事故物件を検索できる複数のサイトにも、死亡事故の記録は出てこなかった。
それなのに、なぜか誰も長く住まない。
「先生に相談する?」
拓海が突然言った。
「先生?」
「ほら、テレビに出てる人。久世環」
「お前、幽霊なんか信じないって言ってただろ」
「信じてないよ。でも、管理会社よりは話を聞いてくれそうじゃん。あの人、前に番組で『何でも霊のせいにしたら駄目です』って言ってたし」
「そこを評価するのかよ」
「だって本当に配管の音だったら、そのほうがいいだろ」
二人とも、その時点ではまだ笑う余裕があった。
浴室の奥に、図面には存在しない空間があることなど知るはずもなかった。
◇
「事故物件なのに家賃が高い、ですか」
数日後、久世相談室を訪れた二人の話を聞き終え、環は少し困ったように笑った。
「先に言っておきますけど、事故物件だと決まったわけではありませんよ」
「でも、五年間で九人ですよ。普通じゃないでしょう」
拓海がスマートフォンに保存した資料を見せる。
環の隣では、佐伯蓮がコーヒーを飲みながら画面を覗き込んでいた。
「確かに多いな。家賃も周辺より一万五千円から二万円くらい高い。何か特別な設備でもあるの?」
「何もないです。エアコンなんてたぶん俺たちより年上ですよ」
「そこまでは古くないだろ」
健太が突っ込むと、拓海は肩をすくめた。
環は二人のやり取りを聞きながら、用紙にいくつか書き込んでいた。
「声を聞いたのは健太さんだけ?」
「はい。拓海は一度も」
「録音は?」
「失敗しました。二人で待っていた日は聞こえなくて、俺が一人で風呂に入った日にまた聞こえました。でも急に来るから、録音を始めたときには終わっていて」
「そうですか。声は毎回同じです?」
「最初は『まだですか』だけでした。その次に『いつまで待てばいいんですか』って」
環のペンが止まった。
「ほかには?」
「一回だけ、『今日も来ないんですか』って聞こえました」
「怒った声でした?」
「いや……」
健太は当時を思い出した。
「怒ってるっていうより、疲れてる感じでした。ずっと待ってて、もう怒る気力もなくなったみたいな」
環はしばらく何も言わなかった。
蓮が先に口を開く。
「先生、何か気になります?」
「声だけなら、まだ何とも言えません。でも、少なくとも聞いた内容は『出ていけ』でも『殺す』でもないでしょう。健太さん自身に何かをしようとしている感じではありませんね」
「じゃあ安全なんですか」
「それもまだ分かりません」
環は穏やかに答えた。
「こういうとき、一番危ないのは『悪い霊じゃないなら平気だ』と自分で決めてしまうことです。本人に害意がなくても、近くにいるだけで生きている人へ影響を与えることがありますから」
「じゃあ、どうすれば」
「まず部屋を見せてください。それから管理会社にも確認しましょう。事故がないのに入居者が短期間で退去しているなら、心霊現象とは別の問題が隠れている可能性もあります」
拓海が少し身を乗り出した。
「先生、そういうのまで調べるんですか」
「霊が見えるからといって、最初から霊の仕業だと決めたら駄目でしょう」
蓮が横から笑う。
「この人、心霊相談より先に建築図面を見たがることもありますからね」
「だって、夜中に天井から音がするという相談で、原因がネズミだったこともありますから」
「そのとき相談料取らなかったでしょう」
「ネズミ駆除のお店を紹介しただけで、お金をいただけませんよ」
「ほら、またそれです」
二人の学生が顔を見合わせる。
健太が遠慮がちに尋ねた。
「テレビに出てる人って、もっと……何というか、すごい金額を取るのかと思ってました」
「あら、テレビに出るとそんなふうに見えます?」
「いや、久世先生がって意味じゃなくて」
「分かっていますよ」
環は笑った。
「テレビのお仕事では、ちゃんと出演料をいただいていますから。皆さんから何十万円もいただかなくても生活できます」
蓮がすぐに付け加えた。
「先生の場合、その出演料を人の相談で使ってしまうから問題なんですけど」
「今日はその話をしません」
「毎回逃げますよね」
「蓮さん」
「はいはい」
健太は数日ぶりに声を出して笑った。
それだけで、夜の浴室を思い出したときにまとわりつく嫌な感覚が少し薄くなった。
◇
問題のアパートは、関東地方の某市にあった。
市内には、かつて全国的に知られた心霊スポットがある。山沿いの旧道に残された建造物で、現在は立ち入りが厳しく制限されているものの、今でも若者が夜中に訪れるという。
しかし環は、車からその方向を一度見ただけで、話題にはしなかった。
「この部屋とは関係なさそうですね」
「分かるんですか?」
健太が尋ねる。
「少なくとも距離が離れています。近くに有名な心霊スポットがあるから、周辺で起きた変なことを全部そこへ結びつける必要はありません」
アパートは住宅街の奥に建っていた。
外壁は一度塗り直されているものの、鉄製の階段には錆が浮き、二階廊下の手すりも触れば塗装が剥がれそうだった。
二人の部屋は一階の角部屋である。
玄関を開けた瞬間、環は立ち止まった。
蓮がその背中にぶつかりそうになる。
「どうしました?」
「少し待ってください」
環は玄関から室内を眺めた。
「ここ、外から見たより狭くありません?」
拓海が首をかしげる。
「古い建物だからじゃないですか」
「そういう意味ではなくて……」
環は靴を脱ぎ、居間まで歩いた。
壁を眺め、廊下へ戻り、今度は浴室の前で止まる。
浴室は二十年ほど前に改装されたらしく、部屋全体の古さに比べてユニットだけが妙に新しかった。
「声は、この中から?」
「はい。でも俺が入ってるときじゃないんです。風呂から出て、洗面所にいるときに聞こえることが多くて」
「浴室のどの辺りから聞こえます?」
健太は迷ってから、奥の壁を指した。
「たぶん、この辺です」
環は浴室へ入り、指された壁に手を当てた。
目を閉じた。
一分ほど経った。
「先生?」
蓮が呼んだ。
環は壁から手を離した。
「誰かいます」
健太の肩が跳ねた。
「やっぱり幽霊ですか?」
「そうだと思います。ただ、少し変ですね」
「何がです?」
「この部屋にいるようで、この部屋にはいないんです」
拓海が眉を寄せた。
「それ、どういう意味ですか」
「私もそれを確かめたいんです」
環は浴室を出ると、蓮へ言った。
「間取り図、あります?」
「契約書類に付いてるんじゃないかな」
拓海がファイルを持ってきた。
そこに印刷された図面と実際の部屋を比べながら、環は何度か玄関と浴室の間を往復した。
やがて蓮も気づいた。
「外壁までの距離がおかしいな」
「ですよね」
環が頷く。
浴室の奥の壁から建物外壁まで、図面上はほとんど隙間がない。しかし実際に外へ回って位置を確認すると、少なくとも六十センチから八十センチほど余分な奥行きがあるように見えた。
「断熱材とか配管スペースじゃないんですか」
健太が尋ねる。
「それにしては広すぎますね」
蓮がスマートフォンの距離計測機能を使いながら答えた。
「昔の間取り図が必要だな」
その日のうちに管理会社へ連絡したが、担当者の反応は鈍かった。
「以前の図面ですか? こちらに残っているかどうか……」
「浴室の裏側に図面と合わない空間があるようなんです」
蓮が事情を説明すると、電話口の男性は少し黙った。
「設備配管のスペースではないでしょうか」
「確認したいので、所有者に聞いてもらえますか」
「いや、その……古い建物ですから、多少は図面と現況が違うこともあります」
環はそのやり取りを聞きながら、何も言わなかった。
電話が終わると、拓海が鼻で笑う。
「絶対なんか知ってますよね」
「決めつけないほうがいいですよ」
環はそう言ったが、自分でも納得していないようだった。
◇
その夜、四人は部屋に残った。
午後十一時を過ぎても何も起きない。
午前零時。
一時。
蓮は二度コーヒーを飲み、拓海は途中から課題を始めた。
健太だけは何度も浴室を見ていた。
一時四十二分。
環が突然顔を上げた。
「聞こえます」
三人が黙る。
最初は何も聞こえなかった。
やがて壁の向こうから、ごくかすかな声がした。
「……まだですか」
健太が拓海の腕を掴んだ。
「今の!」
「聞こえた……」
拓海の顔から、これまで残っていた半信半疑の色が消えた。
声は浴室の中からではなかった。
その奥。
壁の向こう側から聞こえていた。
「今日も、来ないんですか」
女の声だった。
そして、そのあとに別の音がした。
何かを引きずるような音。
ごと。
ごと。
狭い場所で、誰かが荷物を動かしているような音だった。
環が浴室へ入る。
「誰を待っているんですか」
蓮が驚いて環を見る。
返事はない。
「ここから出たいんですか」
しばらくして、壁の向こうから女の声がした。
「約束したんです」
健太が息を止める。
環は壁へ手を当てた。
「誰と?」
「迎えに来るって」
「いつのことです?」
返事は途切れた。
代わりに、壁の向こうから小さなすすり泣きが聞こえ始める。
「先生、もういいです」
健太が言った。
「なんか……かわいそうで」
環はしばらく壁に触れていたが、やがて手を離した。
「今日はここまでにしましょう。この人自身は、あなたたちを追い出そうとしているわけではありません」
「じゃあ何で前の人たちはみんな三か月以内に?」
拓海が尋ねる。
「そこが分かりません」
環は浴室から出ながら答えた。
「ただ、この方はずっと同じことを繰り返している。誰かを待っている。それが何十年続いているのかもしれません」
「何十年……」
「この浴室が改装された時期を調べましょう」
◇
翌日、管理会社ではなく、建物の所有者本人から連絡が来た。
八十二歳の男性だった。
アパートは父親から相続したもので、自身は別の県に住んでいるという。
古い資料を探してもらった結果、現在の浴室が造られたのは二十四年前。
それ以前、この部屋には小さな物置が付いていた。
「物置?」
電話をスピーカーにして聞いていた蓮が確認する。
『ええ。昔の写真を見ると、外廊下から入れる細長い物置があったようです。浴室を広げたときに塞いだんじゃないでしょうか』
「完全に潰したんですか?」
『私は工事に立ち会っておりませんので……』
蓮と環が顔を見合わせた。
数日後、所有者と管理会社の許可を得て、施工業者立ち会いのもと浴室の一部が調査された。
壁を壊す必要はなかった。
屋外側から古い外壁材を外すと、後から塞がれた板が見つかった。
その向こうには、人一人が横向きなら入れるほどの細い空間が残されていた。
空気が流れ込んだ瞬間、湿った木材と埃の匂いが広がる。
蓮が懐中電灯を向けた。
「……ある」
奥に、小さな革製の旅行鞄が置かれていた。
茶色い革はひび割れ、金具は赤く錆びている。
警察にも連絡したうえで中身が確認された。
服。
化粧品。
古い写真。
何通もの手紙。
そして一冊の日記。
持ち主は、かつてこの部屋に住んでいた女性だった。
四十年以上前のことだった。
女性は二十三歳。
地方から出てきて働きながら、結婚を約束した男性と暮らす日を待っていた。
日記には、何度も同じ内容が書かれていた。
彼が迎えに来る。
もう少し待ってほしいと言われた。
来月には必ず。
春になったら。
夏までには。
そして最後のほうになると、文章は短くなっていた。
今日は来なかった。
明日は来るだろうか。
約束したのだから。
さらに調査すると、女性がこの部屋で亡くなっていないことも分かった。
二年ほど住んだあと退去し、別の県へ移っている。
その後、四十代で病死していた。
「じゃあ、事故物件ですらないんですね」
拓海が呆然と言った。
「人が死んでいないのに、どうして霊がここに?」
環は日記を閉じた。
「亡くなった場所にしか霊が現れない、という決まりはありません。人間だって、人生で一番大切だった場所が亡くなった場所とは限らないでしょう」
健太は古い旅行鞄を見た。
「この荷物、置いていったんですね」
「たぶん、持っていけなかったんでしょうね」
日記には、最後の日付のページにだけ長い文章が残されていた。
迎えに来ると言った男性は、結局現れなかった。
女性はそれでも鞄へ荷物を詰め、長い時間待っていた。
最後には自分から部屋を出た。
ただし、すべてを持っていくことはできなかったらしい。
細い物置に残された旅行鞄だけが、改装工事のときにも発見されず、そのまま壁の向こうへ封じ込められた。
「家賃が高かった理由も分かりました」
後日、管理会社から届いた説明を見ながら蓮が言った。
「所有者が周辺相場を把握してなくて、十年以上ほとんど同じ金額で募集してたそうです。短期退去が続いても、家賃を下げれば訳あり物件だと思われるからって、逆に据え置いてたらしい」
拓海が頭を抱えた。
「幽霊より大家の経営感覚のほうが怖いじゃないですか」
「そこは私からは何とも」
環が苦笑する。
「でも、前の住人が短期間で出ていた理由は?」
健太が尋ねる。
「管理会社から何人か連絡を取ってもらいました。浴室から声を聞いた人が二人。壁を叩く音を聞いた人が一人。理由を言わずに出た人もいますから、全部が同じとは断定できません」
その日の夕方、環はもう一度だけ部屋を訪れた。
旅行鞄は警察の確認後、女性の遠縁にあたる親族が引き取ることになっていた。
浴室の前で環は一人、壁へ向かって話しかけた。
「長かったですね」
返事はない。
「迎えに来なかった人を、もう待たなくていいんじゃありませんか」
浴室の換気扇が低く唸っていた。
「あなたは自分でここを出たんでしょう。ちゃんと生きて、そのあとにも人生があった。待っていた時間だけが、あなたの全部ではありませんよ」
しばらくして、環の耳に女の声が届いた。
「……遅かったですね」
「ええ」
「ずっと待っていました」
「そうですね」
「馬鹿ですよね」
「そんなことはありません。待ちたかったから待ったんでしょう。でも、もういいでしょう?」
長い沈黙のあと、女が小さく笑ったような気がした。
「そうですね」
それきり、声は聞こえなくなった。
◇
一週間後。
「引っ越すことにしました」
相談室へ報告に来た拓海が言った。
蓮が目を丸くする。
「解決したのに?」
「だって家賃高いんですよ」
「そこ?」
「二万円近く安い部屋見つけました。大学にも近いし、エアコンも新しいし」
健太も苦笑した。
「俺も賛成しました。幽霊の声はもう聞こえないんですけど、夜中に風呂入るたび思い出すし。それに、あの壁の向こうにずっと人の荷物があったと思うと、なんか落ち着かなくて」
「それでいいと思いますよ」
環は笑った。
「霊がいなくなったから住み続けなければいけない、なんて決まりはありませんから」
「先生、料金なんですけど」
健太が封筒を出す。
「最初に言われた金額より少し多めに入れました。二人で相談して」
「いただけません」
「絶対そう言うと思ったから、最初から多めなんです」
「そういう問題ではなくて」
「先生、俺たち学生ですけど、バイトもしてます。それに助かったのは本当なんで。無料にされたほうが気まずいです」
環は困ったように封筒を見た。
蓮は何も言わず、口元だけで笑っている。
「何ですか、その顔」
「いや、たまには先生のほうが押し切られるのもいいなと思って」
結局、環は規定の相談料だけを受け取り、余分な分は二人へ返した。
「これで、新しい部屋に必要なものを買ってください」
「何を買えばいいです?」
拓海が尋ねる。
「まず火災報知器を確認して、それからカーテンでしょうか」
「お札とかじゃないんですか」
「必要ありませんよ」
「塩とか」
「料理に使ってください」
「先生、本当に霊能力者ですよね?」
「テレビ局にもよく確認されます」
二人が笑いながら帰っていく。
蓮は窓からその背中を見送り、机の上へ残された相談記録を閉じた。
「今回は、赤い紐の子は出ませんでしたね」
何気なく言ったつもりだった。
環の手が止まった。
前回、商店街の向こうに立っていた少女について、環は詳しいことを話していない。ただ、昔関わった行方不明者だということだけは、蓮にも伝えていた。
「毎回出てきたら、それはそれで困ります」
「先生、探さないんですか」
環はすぐには答えなかった。
「探していますよ。二十七年間」
それ以上、蓮は聞かなかった。
環は相談室の窓を少し開けた。
商店街から夕食時の匂いが流れ込んでくる。焼き鳥屋の煙、パン屋から漂う甘い香り、遠くで鳴る自転車のベル。
死者が残すものは、恨みばかりではない。
約束。
後悔。
言えなかった言葉。
待ち続けた時間。
そして、ときには、誰にも見つけてもらえなかった荷物ひとつでさえ、人を何十年も同じ場所へ引き戻すことがある。
環は窓を閉めようとして、向かいの古道具店の店先に並べられた写真立てへ何となく目を向けた。
そこには、店主が仕入れたらしい古い家族写真が入っていた。
父親。
母親。
幼い娘。
そして、その家族とは明らかに離れた位置に、見知らぬ少年が立っている。
環は窓を閉める手を止めた。
翌朝、その写真は店先から消えていた。
第25話 廃遊園地の観覧車だけが回っている 閉園して十二年。 電気も切られ、制御盤も撤去された観覧車が、午前二時四十分になると動き始める。 一周目、ゴンドラには誰もいない。 二周目、一人。 三周目、二人。 回るたびに子供が一人ずつ増えていき、七周目で観覧車は止まる。 そして三日前から、その七人の中に、現実に行方不明になっている七歳の少女が映っていた。 ◇「最初に申し上げておきますけど、この映像に結衣ちゃんが映っているからといって、亡くなっているとは限りません」 久世環は、相談室のモニターに映った少女から目を離さずに言った。 佐藤結衣。 七歳。 小学一年生。 三日前の午後三時半ごろ、自宅から姿を消した。 母親がほんの二十分ほど買い物へ出た間のことだった。 自宅には小学五年生の兄もいたが、二階の自室でゲームをしており、妹が外へ出たことに気づかなかったという。 防犯カメラには、自宅から一人で歩いていく結衣が映っていた。 その後、住宅地の外れで一度だけ確認されたが、そこから先の足取りは分からない。 警察と消防、地元住民が捜索を続けている。 閉園した遊園地までは、結衣の家から直線距離で三キロ近くある。 七歳の子供が一人で行けない距離ではない。 だが、なぜそこへ向かったのかは不明だった。「でも、この子ですよね」 佐伯蓮が動画を一時停止する。「家族が確認したなら」 三好真琴が頷いた。「母親は『結衣に見える』と言っています。ただ、映像が荒い。警察も本人と断定はしていません」 ゴンドラの窓越し。
第24話 死んだ犬が玄関を引っかく夜 若林家で十六年飼われていた犬のハルは、六月の終わりに死んだ。 雑種の雄だった。 柴犬よりひと回り大きく、茶色の毛に、胸元だけ白い毛が混じっていた。若いころは散歩へ連れていく人間を選ばず、リードさえ見せれば誰にでも尻尾を振ったが、十二歳を過ぎたころから長い散歩を嫌がるようになり、最後の一年は家の周りをゆっくり一周するだけで満足していた。 病気で苦しんだわけではない。 食べる量が減った。 寝ている時間が長くなった。 ある朝、家族が起きたときには、いつも使っていた居間の座布団の上で眠るように死んでいた。 家族四人で見送った。 火葬にも全員で立ち会った。「ちゃんと送れたと思ってたんです」 電話をかけてきた長男の若林颯太は、久世相談室でそう言った。 二十七歳。 都内の食品会社に勤めており、現在も両親と同居している。「ちゃんと、というのは?」 久世環が尋ねる。「もっと何かしてやればよかったとかはありますよ。最後の日、俺が残業で遅くなって、帰ったころにはもう寝てたし。でも家族みんなで火葬して、骨も拾って、写真も飾って」「後悔がないわけではないけれど、見送った実感はあった」「はい」 颯太の母・若林恵子も隣に座っている。 五十五歳。 膝の上には、ハルの写真を入れた小さなアルバム。「だから最初の晩は、空耳だと思ったんです」「玄関を引っかく音ですね」「はい」 恵子が頷く。「ハル、散歩から帰ると前足で玄関のドアを二、三回引っかく癖があったんです。外からカリカリって。私たちが鍵を開けるまで」 環は少し引
第23話 毎晩一段ずつ増える階段 長谷川由紀子の家の階段は、十三段だった。 少なくとも、二十八年間ずっとそうだった。 この家を建てた夫が亡くなったあとも、そこだけは変わらなかった。 一階の廊下から二階へ上がる、木製の直階段。途中に踊り場はなく、十三段を上がれば小さな廊下へ出る。右が夫婦の寝室、左が息子が使っていた部屋、その奥に物置がある。 見慣れすぎて、普段は段数など意識したこともない。 それなのに九日前の夜、由紀子は十四段目を踏んだ。 午前零時すぎだった。 台所の水を飲み、二階の寝室へ戻ろうとしたとき、途中で妙な違和感があった。 一、二、三。 何となく数えた。 十三。 そこで二階に着くはずだった。 ところが足の先には、もう一段あった。「……あれ?」 十四段目を上がる。 普通に二階の廊下へ出た。 眠かったのだと思った。 翌朝、改めて数えた。 十三段だった。「やっぱり寝ぼけてたのね」 そう思って終わるはずだった。 二日目の夜。 十五段。 三日目。 十六段。 それから毎晩、一段ずつ増えた。 朝になると十三段へ戻る日もあったが、六日目からは昼間も増えたままになった。 由紀子は定規まで持ち出した。 一段の高さ。 踏み板の奥行き。 一階から二階までの高さ。 どこも以前と変わらない。 それなのに数えると十八段ある。 息子へ写真を送った
第22話 眠ると、知らない町へ行く男 眠るたび、知らない町へ行く。 最初の夜、藤原慎吾は夢だと思った。 夢なのだから、それで当然だった。 目を開けると、見覚えのない商店街の真ん中に立っていた。 空は夕方だった。西の山際に太陽が沈みかけ、細い道路には長い影が伸びている。 八百屋の軒先には木箱に入った大根と白菜が並び、道路の反対側には赤い丸型ポストが立っていた。小さな電器店のガラスにはブラウン管テレビが何台も並び、店先の看板には、慎吾が子供のころですら見た記憶のない古い字体が使われている。 車は走っている。 人もいる。 ただし、何もかも古い。 昭和の町を再現した観光施設のようにも見えたが、妙に生活感があった。 洗濯物。 魚を焼く匂い。 自転車のブレーキ音。 子供を叱る母親の声。 映画のセットなら不要なものまで、すべてがそこにある。「どこだ、ここ」 慎吾はスマートフォンを探した。 ない。 財布もない。 ポケットには何も入っていない。 代わりに、自分が着ている服が違っていた。 寝る前はスウェットだった。 今は白いシャツに灰色のズボン。 靴も、いつ買ったのか分からない黒いスニーカー。「夢だな」 口にすると、少し安心した。 頬をつねった。 痛い。「夢って痛いんだっけ」 そこで目が覚めた。 ◇ 二日目。 また同じ町だった。 今度は、昨日立っていた商店街の入
第21話 葬儀に知らない女が来る 父の葬儀に来た女を、親族の誰も知らなかった。 焼香の順番を待つ列の、一番後ろに立っていた。 年齢は四十代後半から五十代くらい。黒いワンピースに真珠のネックレスという、ごく普通の喪服姿だった。 遺族席に座っていた黒田沙織が最初に気づいたのは、その女だけが遺影を見ていなかったからだ。 参列者は焼香台へ進み、遺影へ頭を下げ、それから棺のほうへ視線を向ける。 女は違った。 会場へ入ってきた瞬間から、ずっと棺だけを見ていた。 それも悲しそうにではない。 笑っていた。 口元へ、ごく薄い笑みを浮かべて。「……誰?」 隣に座っていた弟の浩二へ、沙織は声を落として尋ねた。「知らない。姉ちゃんの会社の人じゃないの」「違う」「親父の知り合いだろ」「お父さんの知り合いなら、あんたのほうが知ってるでしょう」「七十八の親父の知り合い全部把握してる息子なんかいないって」 兄妹が小声で言い合っている間にも、女の順番が来た。 焼香をする。 遺影へは、最後まで一度も目を向けなかった。 そして棺の横へ立つ。 父・黒田宗一の顔を覗き込んだ。 女の笑みが少し深くなった。 沙織は思わず立ち上がりかけた。 死者を前に笑っている。 それだけなら、泣きそうな顔がそう見えただけかもしれない。 しかし女は、棺の中の宗一へ向かって何かを囁いた。 沙織には聞こえなかった。 そのあと女は、遺族席へ歩いてきた。「ご愁傷さまでございます」
第20話 鏡の中の娘が、笑わなくなった 鏡の中の娘が笑わなくなったのは、三週間前からだった。 最初に気づいたのは母親ではない。 九歳の娘本人だった。「お母さん、私、変な顔してる?」 日曜日の朝。 洗面所で歯を磨いていた高梨美緒が、隣で化粧をしていた母の遥香にそう尋ねた。「寝起きだからじゃない?」「そうじゃなくて。鏡の私」「鏡の私?」 遥香はファンデーションを塗る手を止めた。 鏡には、母娘が並んでいる。 遥香。 美緒。 どこにも変なところはない。「普通じゃない?」「でも、私笑ってるよ」 遥香は娘を見る。 美緒は確かに笑っていた。 前歯が一本だけ少し内側へ入った、いつもの笑顔。 ところが鏡の中の美緒は、笑っていなかった。「……え?」 遥香は目を擦った。 もう一度見る。 鏡の美緒は笑っている。「ほら、笑ってるじゃない」「今はね」「見間違いよ」「昨日もだった」 遥香は軽く流した。 子供の言うことだと思った。 それから一週間。 鏡の中の美緒は、少しずつ現実の美緒と違う動きをするようになった。 髪を結ぶとき、現実の美緒が右を向いているのに鏡の美緒は正面を見ている。 顔を洗ったあと、現実の美緒がタオルで目を覆っている間だけ、鏡の美緒が母親のほうを見る。 そして笑わない。 決定的だったのは、